君死にたもうことなかれ

夏に日差しが強く東北大震災の被災者の事を考えて、少しは弱めて欲しいとは思いますが、そんなことはお構いなしにギラギラと照りつける夏の盛りが続いています。
そしてアメリカに原子爆弾を長崎と広島に投下されて、この世の地獄をみた日本人に津波と福島源発の破壊から又この世の地獄を再現されて未だ数ヶ月しか経っていません。人間の持ちうる五感のどれにたいしても閉ざしてしまう根底からの価値観の喪失は、仕事をしていても、心からその喜びを歌う事ができず、ただ時間が無念にを通り過ぎていきます。
緩慢な日常連鎖の中で、おそれていた訃報が届いたのは7月12日の朝でした。朝から日差しが強く早朝ウオーキング程度の運動でも、汗が滴り落ちたその日に、かみさんの兄である恭史さんがなくなった。癌に冒された胃の2/3摘出手術から始まり、胃の全摘出など闘病生活も5年経過していた。昨年から自宅で、抗がん剤をのみながら、食べられないいらだちと、転移した癌がもたらす苦痛にたたかっていられたことと思う。庭の一輪のボタンの花があざやかな彩りを見せた5月の始めに私達夫婦はお見舞いに武豊まで出かけた。いつもの角を回って、未だ新築の香りがする義兄の玄関に黒ずくめの人が立っていました。
始め誰かがわからず、ちかずいていくと、顔のほほが垂直になるほど痩せた恭史さんが出迎えて頂いたのだとわかった。
昼前にいったものだからお寿司をごちそうになりましたが、普通の寿司の1/3以下で作られたお寿司を数個たべたら、もういらないといっていたのを思い出します。とりとめのないお話をして2階にあがり、彼が成人式を迎えた時の彼をとりまく家族の声が、録音されたものを聴かして頂いた。彼の丁寧な説明で、若いときの躍動するはちきれんばかりの思いを共有することができた。私は彼と同学年で、30代前半の頃でしょうか、妹と結婚して東京にいた私に九州へ転勤の話がありました。
それに対し妻の父から自分の会社に来るようにとの話がありましたが、なかなか承諾しない私に恭司さんから電話があり、それで行くことにした。彼はよく名古屋の繁華街に連れ出し、お酒を飲ませてくれたものだ。すでに結婚していたにもかかわらず彼は自分の貯金を使ってやられたた様で、申し訳ないと思いながら、しかしよく遊んだものだ。彼の父はファミリーを大事にする人で子供、孫、そして配偶者迄物心両面で気を遣って頂いたが、その生き方を彼も受け継いで、小うるさい程世話好きで純な人だった。《君死にたもうことなかれ》は与謝野晶子反戦歌で旅順にいる弟にあてた有名な詩歌ですが、私はあなたの早すぎる死を悼み、あれだけみんなの世話をおやきになった貴方にお返しをしたかったと行っておきかったのです。少なくとも貴方のお父さんが生きた歳迄いきていただきかったとおもいます。残念です。
それは大切な人に死をもたらした意味を見つけること、作家柳田邦男さんはそこに、『残された者が生きる上でに支えが残っている』といっています『人ひとりが生きているということは、自分の存在だけではない、誰でも無駄な命、人生を送っているわけではない、喪失体験後の鋭敏な感覚の中で気付くことだ』と語ります。
大切な人を失ったことの意味を自分でみつける心の旅をしなければいけないと思うのです。それはそれぞれの人が、それぞれの恭史さんとの思い出を物語りにして、その物語の中で人間は生きていけるとものべていられます。
そうすると、私も貴方との物語をはぐくんで、ある時期人生を共にしたファミリーの訃報を聞く喪失感を克服するよう努力をするべきだと考えています。
私が今その意味で物語に1ページにいれたいことは、奈良にいき、仏像にあって、その対話を書いてみたいと思います。どうしても何事も本から入る私は、すでにIPAD2に奈良の資料をいれこんでいます。かみさんが病院から帰ってきて、しばらくしたら実行したいとおもっています。
素敵な家族にかこまれた貴方の最後のお顔は、これまでお会いしたことがない《いい》お顔でした。
合掌